第5回 特別研究事業成果報告会

公開日 令和5年11月18日(土曜)(令和5年3月12日(日曜)講演)

「宗像・沖ノ島にみる祭祀の意味と中世への変容

本論文では、宗像における古代祭祀と神観について再検討するとともに中世への変容について考察を行った。古代の沖ノ島祭祀については、従来、祭祀遺跡の巨岩を磐座として祭祀が復元されてきた。しかし、近年の認知宗教学が示す、特定の働きにその行為者(神)を直観するという人間の認知機能にもとづいて考えると、沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)に坐す神々については、航海上の海上目標としての働き、辺津宮(釣川河口)に坐す神は港湾に適した潟湖の働きに神観の基礎があると推定できる。特に、沖ノ島においては、海上から遠望できる最高峰の一ノ岳の働きが重要で、これが祭祀対象となっていた可能性を指摘できる。その古代祭祀は、7世紀後半を画期として、須恵器を神饌の食器として、滑石製形代を幣として多用する形に変化した。この背景には、神郡の宗像郡の成立と、そこでの伝統的な集落を基盤とした神戸の編成・成立があり、「記紀」にみえる宗像三女神の神格も、「記紀」編纂と並行して成立したと考えられる。宗像三女神の神観と祭祀は、9世紀後半から10世紀における国内外の緊張関係と環境変化を受けて変質した。天慶の乱を契機に、宗像神に菩薩位が捧授され祭祀は仏教的な性格が顕著となった。また、10世紀以降、釣川河口に新たな浜堤が形成され、釣川河口、辺津宮が面する潟湖の港湾機能は減退したと考えられる。他方、宗像社辺津宮の西、津屋崎干潟の港湾機能は明確となり、宗像社大宮司の宗像氏が関与する日宋貿易の拠点となった。この過程で宗像三女神には仏教の勧請の考え方を適応し、辺津宮には沖津宮・中津宮の神々を併せ祀る三神合祭の境内景観が成立した。特に辺津宮の第一宮は中核となり、「惣社三所」と称された。一方、沖津宮(沖ノ島)は、日宋貿易の主要な航海ルートからは外れ、古代以来の神の存在を象徴する聖域として、その後に信仰を伝えていくこととなった。


笹生 衛 氏(國學院大学神道文化学部教授・國學院大学博物館長)
専門は日本考古学・日本宗教史。
主要著作に『神仏と村景観の考古学』(弘文堂、2005)、『日本古代の祭祀考古学』(吉川弘文館、2012)、『神と死者の考古学』(吉川弘文館、2016)。