第2回  特別研究事業成果報告会

公開日 令和5年8月12日(土曜)(令和5年3月12日(日曜)講演)

「沖ノ島祭祀遺跡と竹幕洞祭祀遺跡からみた倭国と百済との交流 


 沖ノ島祭祀遺跡の出現背景には、倭国の形成に伴う宗教体制の浮上という側面が強く作用したとみられる。しかし、倭国から朝鮮半島へ渡る玄関口と言える沖ノ島祭祀遺跡の地理的な位置を考慮すれば、宗教体制の形成のみならず海を渡る長距離交易システムの強化という側面からのアプローチも必要になる。4~6世紀頃、すなわち、古墳時代の倭国の政治エリート層に与えられた最大の課題は、鉄など戦略物資を海外から安定的に確保することであった。朝鮮半島における高句麗の南下政策によって、金官加耶から倭国への鉄素材の輸入も、厳しい統制を受ける状況に直面したとみられる。準構造船という荒波に弱い交易船にコウヤマキなど倭国の商品を積んで出港した航海の目標は、まず、金官加耶の国際的な港であった。遭難の危険性も高い航路であったと言える。特に、加耶鉄など海外で購入した戦略物資を積んで帰国する倭国の船舶が遭難した場合には、倭国の政治エリート層・商人集団も、致命的な損失を受けるようになる。当時の倭国は、高句麗の脅威に対抗するためにも、鉄など戦略物資の安全な運送に全力を尽くしたに違いない。交易船が玄界灘を往来する過程で、航海の安全を守るために多様な試みがあったとみられる。5~6世紀頃、倭国の政治エリート層∙商人集団が、特に、力を注いだ分野は神への祈りであったと思われる。この祈りの主な目的は、鉄など貴重な戦略物資を積んだ交易船の安全な帰還であろう。交易船の難破は避けなければならない事態であったと言える。この事態を避けるために、倭国の政治エリート層・商人集団は、沖ノ島で盛大な祭祀を行うことを決意したとみられる。5世紀頃になると、沖ノ島における祭祀行為は一層強化される傾向がみられる。この現象は朝鮮半島における高句麗の南下政策の影響によるものであったと言える。沖ノ島祭祀遺跡に類似する祭祀形態は、百済の竹幕洞祭祀遺跡でも確認された。ここは、倭国から公州など百済の首都へ向かう百済の西海岸航路上に位置する海岸祭祀遺跡である。5~6世紀頃、この海岸祭祀遺跡では、百済様式の祭祀痕跡とともに、石製模造品を供献する倭国様式の露天祭祀が行われた痕跡も見つかった。この倭国様式の祭祀痕跡は、沖ノ島祭祀遺跡の様相とも類似するものであったと言える。これは、高句麗の脅威が高まった時期に、百済の西海岸航路を往来する自国の交易船の安全を守ることが、百済のみならず倭国の戦略目標であったことを物語る資料であろう。従って、当時、倭国と百済が直面した国際的な政治情勢と交易環境を理解する上で、沖ノ島祭祀遺跡と竹幕洞祭祀遺跡は、もっとも、貴重な宗教遺産であったと評価できる。

禹 在柄 氏(韓国・忠南大学校人文大学考古学科教授)
専門は考古学、古墳時代政治史、日韓交流史。
主要著作に「韓国金海大成洞古墳群と日本古墳時代開始期の墓制」『待兼山考古論論集』(大阪大学、2005)、『日本書紀韓国関係記事研究Ⅰ〜Ⅲ』(共著、一志社、2002〜2004) 、Early Korea - Japan Interactions (2018, Harvard University, Korea Institute,共著)