世界遺産への道55 ≪宗像大社辺津宮の境内(明治以降編)≫

古代・玄界灘を舞台に、日本と大陸の航海交流の要衝として信仰が生まれた宗像大社。その信仰は現在も続いています。

国指定史跡の「宗像神社境内(注:1)」について、3回シリーズで紹介します。

(注:1)現在、宗像大社と呼ばれていますが、指定名称は宗像神社境内です

昭和と平成の調査

●昭和20~40年代

戦前・戦後、疲弊(ひへい)していた宗像神社を建て直そうと、「宗像神社復興期盛会」を立ち上げ、神社の歴史を明らかにするため、神社史の編集や沖ノ島の調査に取り掛かりました。

調査を基に、心字池の改修や高宮祭場の整備など、昭和の造営が実施されました。この一大事業を成し遂げたのは、赤間出身の出光佐三さんでした。そして、昭和46年4月22日、「宗像神社境内」は国指定史跡となりました。

●平成24年以降

昭和の造営から40年以上が経過し、宗像神社境内の価値を損なうことなく保存していくため、文化財保護法に基づき、市が環境調査を実施しました。調査の中で明らかになった境内の記念碑などから、神社に対する人々の信仰を改めて感じることができます。

今に伝える記念碑

沖津宮、中津宮、辺津宮の総社であり、人々の参拝も多い宗像大社辺津宮には、いくつもの信仰の記念碑が残っています。

 

(1)花崗岩製の石柱

手水舎(てみずしゃ)の手前にある花崗岩(かこうがん)製の石柱は、幟(のぼり)を立てるためのもので、昭和13年、門司鉄道局の文字が刻まれています。鉄道の安全を願って奉納されたものと思われます。

(2)拝殿右側の石板

拝殿向かって右側にある石板は、明治12年に鶏卵卸問屋の関係者が集まって建てたもので、宗像地域は、当時養鶏が盛んであったことが分かります。

画像:鶏卵卸問屋の関係者が建てた石板
鶏卵卸問屋の関係者が建てた石板

(3)まよい子たづね石(たずね石)

今は、授与所の裏にあり、直接目にすることはできませんが、明治37年に建てられた「まよい子たづね石」と書かれた石柱があります。子どもでも読めるひらがなで書かれたこの石柱からは、祭りなどで、多くの人々がにぎわう中、親とはぐれて泣いている子どもたちがここで親と出会い、ほっとする情景が目に浮かびます。

画像:「まよい子たづね石」と書かれた石柱
「まよい子たづね石」と書かれた石柱