世界遺産への道104 ≪8つの構成資産の世界的な価値≫
2017年09月7日
沖ノ島と古墳
古代の日本では、中国大陸や朝鮮半島から新たな技術や思想・文物を取り込むために、海を介した交流を盛んに行いました。その航海交流の要衝となっていた宗像沖の玄界灘は、現在も荒波で知られる危険な海域で、そこに浮かぶ孤島「1.沖ノ島」では4世紀後半から9世紀末にかけて航海安全を願った大規模な祭祀(さいし)が行われました。 古代豪族宗像氏は、沖ノ島での祭祀を担い、海人集団として航海の水先案内を務めていました。その宗像氏の墳墓を代表する「(8)新原・奴山古墳群」は、玄界灘を一望できる小高い丘に築かれ、方墳をはじめ、大小の前方後円墳、円墳がほぼ完全な形で保存され、当時の支配階層を見て取ることができます。
航海の安全を願う祭祀と神事
宗像氏は、奈良時代に編さんされた『古事記』『日本書紀』の中で「宗像君(むなかたのきみ)と呼ばれ、航海安全を願う祭祀を発展させました。沖ノ島で半岩陰(はんいわかげ)・半露天(はんろてん)祭祀が行われていた7世紀後半以降、大島の御嶽山山頂や九州本土の田島でも土器や滑石製の石製品を使った同様の祭祀が行われ、沖ノ島の沖津宮に田心姫神、大島の「(6)中津宮」に湍津姫神、九州本土の「(7)辺津宮」に市杵島姫神がまつられます。
10世紀以降、宗像大宮司家による三宮の祭祀は辺津宮が中心となり、12世紀には、境内に三宮をまつる第一宮(ていいちぐう)、第二宮(ていにぐう)、第三宮(ていさんぐう)がありました。14世紀には、御長手神事(みながてしんじ)と呼ばれる、沖ノ島から竹を従えて日を定めず春夏秋冬年4回、神事が行われていたことが『正平(しょうへい)年中行事(ねんちゅうぎょうじ)目録(もくろく)』に記されています。毎年10月1日に開催される「みあれ祭」は、この神事を昭和37年に再興したものです。
古代から現代まで続く信仰
近世に入り沖津宮の神事は、宗像大宮司に変わり大島の社家である一ノ甲斐河野氏(いちのかいかわのし)が執り行い、「禊(みそぎ)」や「一木一草一石たりとも持ち出してはならない」などの禁忌(きんき)が守られました。また、沖ノ島の南東1kmのところにある岩礁「(2)小屋島(こやじま)・(3)御門柱(みかどばしら)・(4)天狗岩」は、鳥居のような役割を果たしています。18世紀ころには、大島北岸に(5)沖津宮遙拝所が設けられ、通常渡島できない沖ノ島を拝む場所としての役割を果たしています。
このように、ユネスコ世界遺産委員会は、航海安全を願う信仰が、古代から現在まで途絶えることなく続いていることを示す遺産として価値が高いと評価しました。